祝え!Dies Mirabilisを‼

“Dies Mirabilis”(ディエス・ミラビリス)とは、ラテン語で「奇跡の日」「素晴らしい一日」という意味だそうです。このブログを訪れて下さる皆様一人一人にとって、今日一日が素晴らしい日となりますように!(^^)!

こちらのレモン(檸檬)もお忘れなきよう(#^^#)

「レモン」と言うと

米津玄師の“Lemon”が真っ先に思い浮かべられることだろう。

いや、かく言う私もその一人なのだ。

 


米津玄師 MV「Lemon」

 

カラオケでも、まあ間違いなく、これを歌う。

しかも、少しなり切って歌う。

 

とは言え、

そちらばかりに気を取られては困る。

こちらの「檸檬」にも、目を留めてもらいたいものだ。

 

作者と同様、

日頃よく行く店で、

ふと一つの檸檬に目が留まった。

 

むろん、私の場合は、八百屋のレモンじゃなくて、

「レモン」色をした表紙の本なのだけれども…

 

それにしても、わずか20ページほどの短編なのだが、

ちょっとしたショートムービーを見ているような気持になる。

モノクロの自主製作映画ではなくて、

いろどり鮮やかな心象風景映画とも言うべきものだ。

 

あんまり書きすぎると、

これから読んでみようという人の楽しみを奪ってしまう。

やんわりほのめかす程度にしておくのが

大人の嗜みというもの。

 

面白いのは、

この作品には、作者一人のほか、登場人物が誰もいない。

つまり、ノローグに位置づけられるだろう。

だがしかし、

単なる独白というのとも違う。

 

敢えて言うなら、

のっけから出て来る「えたいの知れない不吉な塊」が、

対談者と言えようか。

 

「生活がまだ蝕まれていなかった以前」と言っているから、

いま作者の生活は荒れていたらしい。

貧乏で、いろんなことがうまく行っていなかったのだろうな。

 

言ってみれば、その「もやもや感」

私の人生を押さえつけているものが、彼の語るところの

「えたいの知れない不吉な塊」なわけで。

 

その塊の正体を突き止めようというのが、

檸檬」のストーリーと言えば、ストーリーになるのかしら。

 

取りも直さず、冒頭で「塊」と書いている時点で、

それは既に檸檬」を連想させようとしていたことは明白なのだけれども、

そこに至るまでに、いろいろと回り道というか、

あちらこちら意味もなく当てもなく放浪しているのも、

心のアンニュイな旅ということになるのだろうか。

 

その気だるさや重苦しさとは裏腹に、

筆者の行く先々に現れるものの描写は、実にくどいぐらいに生々しく感じる

昨今流行りのスマートさとは違って、

一つ一つのものに丁寧に、興味の眼差しを向けている感じだ。

 

のみならず、言葉遣いもさることながら、出て来るものはみな、

大正明治か、あるいは江戸時代かと見まがうほど、

まことに懐かしいものばかりなのだ。

これは単純に楽しい。

 

ありていに言えば、知らないものもあるけれど、

自分もその街に迷い込んだ気分にしてもらえる。

 

いずれにせよ、

物語は終盤、一気に檸檬へと集約していく。

 

八百屋で仕入れた檸檬一つで心晴れやかになった彼は、

しかし丸善に入って、

再び鬱蒼とした気分にさせられる。

いったん、気持ちが上がり調子になっただけに、

この落ち込みはより一層、手の付けられないものになっている。

 

だが、そこに神の声か、悪魔の声か、

あるささやき声が、聞こえて来たのだ。

 

いたずら声と言ってしまえば、それまでだが、

ちょっとやそっとのいたずらではない。

今の時代だったら、捕まってしまうかもしれない危険な遊びなのだ。

 

どんなものかは…

皆さんにも実際に読んでみられることをお勧めしたい。

 

私が感じる檸檬」の重さと、他の読者のそれとは違うものだろうからね。

 

 

 

そういうわけで、私も少しばかり、

梶井基次郎の「檸檬を真似て、

今度カラオケに行った時にでも、

部屋のテーブルの上に、

機械の城を築き上げて、

そこに檸檬をそっと置いて来てやろうかな。

 

これが爆弾だとしたら、

私の孤独感を増幅させる、あのカラオケ店というものが

ぜんたいどうなるものか、

一つ楽しみに見てやろうじゃないか。←嘘です。冗談です!

(※あくまで作品を真似てみた妄想なので、誤解なさらぬよう、一応、お断りしておきますね(*^^*))